誰もが真の自由の甘受を切望していますが、まず私たちは自分の願望に対する突破が必要です。心の願望は私たちの内面の真実な姿を見せてくれます。私たちはそれを神の光の中に置く必要があります。私はウェン・イーに起こった信仰の突破の故にとても感謝しています。
長い間、私は対人関係に常に漠然としたプレッシャーを感じていました。ある日偶然、私は牧師と師母の前で心に満ちていた私のつらさをさらけ出しました。言葉に出せば出すほど私は感情的になり、ネガティブになっていきました。ごみが地面に一杯になった様子は台風が過ぎた後のようでした…
私は非常な挫折と痛みを感じていました。「本当の気持ち」を表現することでなぜ「火」がついたのでしょうか?なぜ私は痛みと傷を言い表す為にこんなに努力しなければならなかったのでしょうか?私は先に変わるべきだったのでしょうか?それは難しすぎます。私はたぶん教会を去ることになると思いました。しかしこのとき、師母がやって来て私を抱きしめました。私は彼女を抱きしめ、子供のように大泣きするのをこらえられませんでした。私はその時までこのように両親を抱きしめたことはなく、そのとき私にはこのような両親が必要なんだと気づいたのです…
この抱擁と号泣が私を解放しました。牧師と師母は私を追い払わず、逆にとても深い家族の安心感を与えてくれました。教会を出た後、私は電話を取り、部長や同僚の留守番電話に謝罪のメッセージを残しました。私は話しながら、自分の声にざわつきは無く、リラックスしていて、心のわだかまりやしこりを反映していないことを感じることができました。同僚がすぐに私に折り返し電話してきて、私の緊張を理解してくれていることと、もう少し余裕が必要だと思ったと言ってくれました。
このことで本来、私の行き詰まりは、わずか10分で氷が割れるように無くなるものなのだと想いました。また、他人の言動が自分に対して意図的であると本当に信じるなら、あなたは常にその自分の思考パターンによる状況や感情の中を生きることになり、恐怖や怒りに追われ、拒絶や拒否を感じることになると理解し始めました。
頑なな私を忍耐し神の前に連れ戻し、武装を解除させて解放されてくれた牧師先生と師母に感謝します。私が変えられたのは、彼らが権威によって私を無理やり「降伏」させたからではなく、私に付き添うことを願い、私のいのちの「乱雑さ」を一緒になって整理してくれたからです。
私はイエス様のたとえ話の中の年下の息子のことを思いました。彼は家を出て放蕩し、豚の世話をするようになってその悪臭の中で、狼狽し、堪えきれなくなり、最後に父親に抱かれて息子としての自由を取り戻しました。そして、私は被害者意識と抑圧された心に恨みの思いが満ちるという悪臭の中でどうしようもなくなり、同じように愛の抱擁によって「放蕩息子の帰郷」を味わったのです…
どうか611の子供たち全員が、この真の自由を享受し、薄暗い惑わしと抑制から逃れ、人生の彩りの光の中を生きることができますように!【2019.09.15】