かつて、私は既婚男性のスタッフ達に尋ねたことがあります。彼らの妻に対する態度はどのようであるか「なだめる」ように扱っているのか、それとも「支えている」のか?と。この問いに何人かの男性スタッフがどう答えてよいか分からない様子だったのは残念なことです。それで、私は男性と女性の大きな違いを説明するための例として、妻を繊細なボーンチャイナ製のカップに例えました。 ジェリーはそれに耳を傾け、自分の態度を変えようと試み始めました。
私の妻はとても情緒が変化する人で付き合い始めた頃、私は非常に忍耐強く接していました。私は彼女には癒しと解放が必要だといつも感じていて、彼女のわがままも受け入れ、感情を落ち着けようと思っていました。でも長い間、彼女の感情の起伏は相変わらずで、私の彼女への忍耐は既に表面的には彼女を受け入れられているかに見えましたが、内心ではいつも、なぜ未だに状況は変わらないのかと思っていました。
ですから、私は師母から指摘されたとき、私の妻を扱う態度は良くないと素直に認めました。師母の話を聞いた後、私はようやく女性には本当に感情を表現する必要があることに気づきました。牧師は「なだめるという行為は自分のためにすることで、自分を重要視しているということです。支えることはいのちの木であり、自分を手放し、お互いを大切にし、満たしあうこと、それは人を成熟させるための支援です。」と話してくれました。私は自分が今まで妻に寄り添って来たこの「なだめる」という一種の方法が、実は自分が上手くやり過ごすためのものだったことに気づき、彼女を本当には理解しておらず、受け入れ、愛し、支えていなかったのだと分かりました。
帰った後で、妻は私になだめてもらう必要はないこと、ただ途中で遮ったり訂正したりせずに最後まで自分の感情の表現を聞いてもらいたいのだと話してくれました。それから私は「彼女はこうなんだ。」ということを本当に受け入れようと試み始めました。たとえどんなに彼女が敏感であっても、非常に怖がっていても、外出したくないと思っていても、緊張しやすくても、多くの考えをもっていても、私はこれが彼女なのだ受け入れ始めました。彼女に対して何かを責めたり、ある基準によって変わるように求めることはもうありません。
私は、彼女がゆっくりと以前とは違っていく様子、少しリラックスし、それほど怖がらなくなり、人々と接触することを望むようになって来ていることを発見しました。 自分の意見を表現する勇気を持ち始め、私に対しても「対峙」するようになりました。妻がリラックスするようになったことで、私も自然と「心地よく」なりました!
本来、支えることは本当に自分の考え、要求を手放し、妻の感覚も情緒も完全に支持し、受け入れることなのです。私はまだそれを完全には理解していませんが、自分の “ボーンチャイナのカップ”を大事にすることを熱心に学び、私の起点がいのちの木の正しい方向に通じるものとなることを願っています。
私は彼の変化を聞いて喜んでいます。そして私はすべての私の子供たち、夫婦の関係が絶え間なく進歩し続けることに期待しています!