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仮庵の祭りの前の悔い改め

先週はユダヤ暦で新年(Rosh Hashana5781)を迎えました。その後大贖罪の日(Yom Kippur)があってから仮庵の祭り(Sukkot)があります。なぜこのような順序で祭りを祝うのかと疑問に思う方もいるかもしれません。なぜ、低いところから高いところに向かわないのでしょうか。なぜ罪の悔い改めをまずして罪を清めてからから新年に入り、そして最後に仮庵の祭りを祝うのではないのでしょうか。なぜ、天の父はこのように計画されたのでしょうか。天の父は、これを通して私たちに何か語りたいのでしょうか。

新年というのは新しいサイクルを始める新しい始まりを意味します。先週、私は教会が新しいシーズンに入ったことに触れましたが、世界も新しいシーズンに入りました。神様による新しい創造がされたからと言ってすぐに神様が私たちの「ただなかに住まわれる」、そして神様の臨在の中に入れるという意味ではありません。新年、そして大贖罪の日、それから仮庵の祭りを祝う順序(高い所から低い所へ、それからまた高い所へ)はこう語ります。神様の臨在に入っていくためには、まず私たちは罪を告白しなければなりません。神様は私たちを創造されましたが、私たちは罪を犯しました。仮庵の祭りの神様の栄光満ちる臨在に入る前に、まず私たちは神様の救いを受け取らなければなりません。

最近では、よく「恵みの神学」が色々な教会で語られています。「恵みの神学」というのはイエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださり、私たちは新しいものと変えられたので罪を告白しなくても良いという考え方です。新しい創造ですから、私たちはもはや罪を告白する必要はないという理屈です。しかし神様は創造の原則と真理の原則を示されています。神様はこの世界を創造されましたが、人はそれを破壊してしまいました。私たちは弱い者であり、常に罪を犯してしまう者です。ですから私たちは神様の仮庵と臨在に入るため、いつでも罪を告白しなければならないのです。

神様の臨在の中では、どんな罪もあってはなりません。イエス・キリストは私たちのために死んでくださり、そして私たちの全ての罪を許して下さいました。しかし、私たちは、しっかりと罪を告白したのでしょうか。そして、私たちの罪の告白は深い領域まで達したのでしょうか。聖霊様が私たちの内を照らしてくださる事で、さらに自分の内側を見る事ができ、罪を告白する事が出来ます。一度きりの罪の告白でおしまいというわけにはなりません。それゆえ毎年罪を告白する必要があります。自分を知れば知るほど、どれほどもっと罪の告白が必要かがわかります。長く生きるだけ、罪の告白も必要なのです。この何年もの間、私たちは教会スタッフと兄弟姉妹の皆さんを、表立った罪の告白から深い奥底にある罪の告白に至るまでも導いてきました。私たちが深く罪を告白すればするほど、自由に解放されていきます。今年は3週間かけて、私たちは自身を整えてきました。私たちの教会スタッフ、つまり祭司とレビ人でファミリー朝食ミーティングの中で罪の告白をしました、さらにMGリーダーも同じように行いました。

9月27日の主日礼拝で、個人的なレベルから国々と町々のため祈り、そして聖餐式をとり、罪の贖いのささげもの(子羊であるイエス様による贖い)と、なだめのかおりの捧げ物としての全焼のいけにえ(献金というかたちで)を主に捧げました。神様はイスラエルもアラブの人たちの愛しておられます。私たちの献金は教会の建物のため、そして中東の神様の人々のために捧げられます。愛する兄弟姉妹の皆さん。私たちの教会は、祭司として立ち、国々と町々のために責任をもって、とりなしの祈りをしていきましょう。私たちが信じて神様についていき、神様の道に歩む時、私たちの天の父は、この困難な状況の中でも、平安と守りを与えて下さいます。【2020.09.27】

ジョシュア•チャン師
本稿は611霊糧堂週報 1002号より抜粋

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