最近、私と師母がスタッフにシェアしたメッセージが、受け取った側のスタッフたちの心の中で、いつの間にか、湾曲して他のものになってしまっている事に気が付きました。例えば、私たちはアップルをあげたのに、彼らはバナナとして受け取ってしまっているのです。さらにその下にいる部門のスタッフたち、そしてセルメンバーたちが受け取る時、それは全く違う、活きた物でさえないビー玉になってしまっているのです。なぜ、このような事になってしまうのでしょうか。
デボラ先生は私たちが教会を建てた当初から、私たちと一緒にいます。過去に、私たちの渡したアップルがバナナにいつも変わってしまっていた事を認めました。さらに、それがビー玉となって、次に渡されていってしまいました。彼女が過去にした事を思い起こし、反省する時に、アップルが変わってしまった三つの要因を見つけ出しました。ひとつ目の要因は、彼女に間違った先入観があった事です。メッセージを聞く前に、すでに彼女の中に色々な感情、色々な考えや思い込みがあり、それらがメッセージを心で受け取れなくしてしまい、消化できない原因となっていたのです。二つ目は、信じる事が出来ていなかったという事です。私たちがどんなに、彼女に愛を表現していても、彼女はそれを自分なりに解釈してしまっていました。彼女は私たちが見下していて、愛していないと考えていました。そのため、彼女が他人に私たちのメッセージを伝える時、いかにも私たちが非常に厳しくて、不合理であるかのように伝えてしまっていました。三つ目は、彼女が高慢である事です。自分の価値を証明するためにミニストリーを懸命にして、その結果を非常に気にしていました。私たちが愛をもって彼女に注意をすると、彼女はその受けた注意喚起を自分のスタッフに流すとき要求と制約となり、抑圧的な規則や遵守すべき規制とすらなってしまいました。
何年も前のことですが、月曜日にゲストスピーカーと夕食を取る予定でした。その席にデボラ先生も誘いました。デボラ先生を愛をもって誘ったことが、「なんで?唯一の休みの日を返上してまでしないといけない?ひどくない?接待の雰囲気作りに駆り出されるなんてわたしはホステスですか?」このように彼女はまったくねじまがって受け取っていました。感謝なことにデボラ先生はその後変わって、私たちの彼女に対する決断は良いものであると受け取れるようになりました。今は私たちの愛を受け取ってくれています。
言いたいことは、私たちが流しているりんごは神様の愛ですー単純で純粋なものです。育った環境が違うことや、過去の傷、心の要塞、それらがそれぞれが違った受け取り方をするように捻じ曲げてしまうのです。受け取った人が次の人に渡す時に、さらにねじれていくのです。そうやってねじれはどこまでも続いていきます。たとえば神様の十戒もそうです。神様は十戒を通してご自分の愛を表そうとされています。なぜなら律法は愛にかかっているからです。しかし、今日私たちは十戒を規則と規定として受け取り、神様を抑圧者とみなしています。
愛する兄弟姉妹の皆さん、疑いを脇に置いて、愛と信頼をもってそれぞれの権威者とつきあっていきましょう。また、神様を求め続け、へりくだった心をもって神様の言葉を読んでいきましょう。このようにして、聖霊様の灯すあかりによって神様の愛をもっと深く受け取り、流していきましょう。■【2021.11.28】
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