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神様を王とする世代となる

主を賛美します!2月2日(火)に、私と師母は初めて香港にある611の枝教会の主任牧師達を集め、私たちの教会運営スタッフとともにミーティングを行いました。ミーティングを行ったのは、2月22日から4月2日の期間に行われる40日断食祈祷において、香港と国々の為にどのように祈っていくかを話し合う為でした。またミーティングを行った同じ日に、私たちの台湾にある母教会も全ての枝教会に呼びかけて使徒的カンファレンスを持っていました。この素晴らしい偶然の一致を通して、全ての教会が一致して祈る祈りを神様は喜ばれていることを確信することが出来ました。神が喜ばれる祈りはレビ人と祭司達が人々を悔い改めに導き、神に叫び求める祈りです。

モーニングデボーションで士師記の最後の章を読んだ時、私は心が突き刺さる思いがしました。なぜなら、ミツパでイスラエルの民が集まった時、彼らはベニヤミン族を一掃することを決めたからです。彼らは主の前に祭壇を築き、自分たちの罪を悔いるのではなく、主の前にひどく泣いてベニヤミン族を責めたてたのです。このことは、この時代を映し出してはいないでしょうか。この世代は神を王としない世代です。そのかわりに、自己中心になり、自分を正しいとみなし、自分の目に良いと思う事だけを行っています。これらを通して、私たちは40日断食祈祷に導かれました。私たちは深い罪の告白と悔い改めをしなければなりません。

私たちが「士師記」をモーニングデボーションで読んだ時、「士師記」は今の時代を映し出していることに気づきました。士師記の時代には王がいなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていました。士師記の最初の章から最後の章までイスラエルの民は主に伺いつづけ、シロで宗教的な儀式を行っていたのです。表では彼らは主を礼拝していましたが、彼らの心には神様はいませんでした。彼らは外側では主を求めているように見えましたが、彼らはただ心の欲望だけを行っていました。このことは、今日の教会がいつもよく省みていなければならない事です。神様を王とせず、私たちは、ただ宗教的な儀式を行っているだけではないでしょうか?

士師記最後の章を読んだ次の日のモーニングデボーションでは、箴言30章を読みました。この章を通して神様は私たちにへりくだるように再び語られました。神様のことをよく知るイティエルと、自分の肉の欲だけに従った人として象徴されているウカルが、この30章に出てきました。自分たちはいつもイティエルのようだと思いますが、しかし同時にウカルであるかもしれません。私たちは大抵の場合、神様のことをよく知っていると思っています。しかし、必ずしもそうではありません。神様は私たちに語っています。私たちの人生の中では理解できないこと、不可解な事がたくさんありますが、私たちは、自己満足に陥らず、また自分を正義とすることをやめましょう。そして、決して他人を蔑まないようにしましょう。

愛する兄弟姉妹の皆さん。私たちはへりくだり、そして悔い改めて40日断食と祈りに入っていこうではありませんか。私たちは断食をして自己満足することなく、また断食しているからといって自分たちを何か聖なる者と考えてはなりません。そうではなく、私たちはさらにへりくだり神様を求め、もっと深く罪を悔い改めていこうではありませんか。私たちの傲慢さを取り除き、自分を正義とすることをやめ、宗教的な衣服を身につけるのはやめましょう。教会のため、そして国々のために祈りましょう。この自己中心的な世代が、一刻でも早く神様を王とする世代になりますように!■【2021.02.07】

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