過去数年にわたり徐々に、私は神が贖罪の日を非常に大切にしていると感じるようになりました。内省して自らを清めることのない人が、祭司、レビ人として復活祭と仮庵の祭りの祝福の中に入るのはとても難しいことです。これは毎年の恒例行事として、父親の誕生日をケーキを買いに行き、写真を撮ったりして祝うようなものです。祝っておきながら、なぜ父親が嬉しそうではないのか、何を考えているのか、何を必要としているのかを気にかけず、お互いの間の心のしこりを無視して、それらに向き合わず放って置く。その上でお祝いだけすることができますか? 同様に、私たちが神の御前に行くとき、恵みと憐れみを受け取るために、私たちはまず神の心に触れ、神と一致しなければなりません。
二ヶ月前、私には感動があり、今年の贖罪日は一日だけでは時間が足りないと感じていました。また、香港の現状による影響、私の教会スタッフたちへの認識と理解に基づき、私はコアメンバーと教会スタッフたちのいのちがもっといのちの木に合わせられていく必要があると思いました。そのため、まず全員で三日間の断食をし、それから正式に贖罪の日に入って行きました。結果、全員の心は整えられ、最後には、教会スタッフは上下の別なく皆で神へ向かい、深い罪の告白をしました。
罪、それは私たちのいのちの内に留まって蓄積し、苦渋に変わり、悪臭を放ちます。罪を認めて告白することは、いのちに溜まった臭い水を、神の光の下に照らし、悔い改めが出来るようにすることです。すると神は私を拒絶し、見捨てられるのでしょうか?明白なことは、自身の問題を神に責任転嫁し、神を責める人は、自分の罪を認めていないということです。私たちの心に後悔があり、罪を認めて告白したいと願い、神を通して活ける水によって自分を清めることがなければ、内側の臭い水を除くことは出来ません。だから悔い改めに焦点を合わせることが重要です。私たちに悔いる思いはありますか?神は明らかに愛ですが、私たちは罪に縛られているので、神の愛を感じられず、神を怨んだりするのです。
最近、私は特に罪の告白と悔い改めに特別な感触を覚えています。深く感謝することを知らない人は、すべて心に悔いる思いがありません。その人が罪の告白をしても、もちろんその効果は大きく違ってきます。夫婦の関係においても反省が欠けており、自分が間違っていると本当には認められないので、表面的な謝罪をするだけで、慰めを得るに至らないのです。
罪は一種のストレスです。悔いる思いがあって、やっと事実とその真相を見ることが出来、罪を認めて告白することができます。臭い水は甘い水に変わり、喜びは湧き出てきます。そして周りの人もそれを感じ取れます。感謝とは、ただ口先だけの浅い感謝の言葉を口にすることではなく、心と体の奥底から出てくるものです。私の子どもたちが真に自分の罪に向き合い、この目が甘い水の溢れ流れる様子を見ることを願っています。【2019.09.22】